五百籏頭真 名言・語録15件
(政治外交史家)
「人は自分の職業をどう決めるのだろうか。私は学者の道を歩んだが、それは父が学者で、その家庭に育ったから」
「ただ父を見て育った私にとって学者の道は貧乏を覚悟することを意味した」
「高度成長を楽しむようになった企業社会と違って、学界ではなお就職の機会は乏しく、就職しても学者は貧しく、結婚もできないかもしれない、それが私の体験からくる認識であった」
「ワシントンに到着すると、公文書館はありがたいことに、夜10時まで開館していた。文書館員は私の関心を聞き、歴史文書のつまった20箱近くを車に載せて閲覧室に届けてくれる。果たして望みの日本占領資料に巡り合えるだろうか」
「米国立公文書館で私が日本分割占領案を発見したニュースが報じられた後、専門家による批判の波が走った」
「当時、日米関係史研究で学会をリードしていたのは、国際政治学会理事長になる細谷千博一橋大教授や、太平洋を行き来しつつシャープに議論をする入江昭シカゴ大学教授らであった」
「浜辺の小石のように文書は膨大であり、誰しも見落とすことはある。しかし、見落とした者が、見た者を否定するのはいかがなものか」
「私はなめるように読んだ。それを基に、日本占領軍の構成について学会報告を行った」
「質疑に移ると、細谷教授が真っ先に立って、3ヵ条の質問もしくは糾弾の演説を行った」
「私は資料的根拠をもって丁寧に応答した。すばらしい機会となった。学者生命喪失の危機から一転して、大家の打ちおろしにもひるまなかった若武者と学会で認められることになった」
「細谷教授が『その節は失礼しました。私が間違っていました』と明言された。驚き、敬意を覚えた」
「私は学会報告を敷衍して、国際法学会の『国際法外交雑誌』に論文を連載した。入江教授はそれを高く評価され、その後何度かのハーバード大学での研究に際して心のこもったホストをして下さった」
「私の指導は2点のみ、誰よりも原資料を集めること、文明史的意味を認識することである。それを出版すると様々な賞を受ける者が少なくない。ゼミから10人以上が学者になった」
「結果的に期待外れの民主党政権であったが、北沢俊美防衛相は立派だった」
「福島第一原発の事故を日本国家存亡の危機と認識した菅首相は、それだけにいら立つことが多かったというが、復興構想会議については別人だった。全面的に我々に任せ、それでいて会議に臨席して重視姿勢を示された」
【出典】
【感想・論評・補足】
学者は全精力を注ぎ長年研究を積み重ねたものでも、一つの新しい資料が発見されたことにより、研究したものが全て覆ることがある。たった一つの資料により学者生命を奪われることもあるのだから何とも厳しい世界である。しかし、『その道の大家』と呼ばれる学者は間違いを間違いと認めるだけの度量がある。五百籏氏、細谷氏、入江氏のやりとりは何とも見応えがある
経歴(プロフィール)
■五百籏頭真(いおきべ・まこと)
日本の政治学者。政治外交史家。歴史学者。兵庫県立大学理事長。神戸大学名誉教授。防衛大学校名誉教授。1943年12月16日、兵庫県西宮市の苦楽園口駅の近くで生まれる