中川懐春
中川懐春 名言・語録1件
(中川電機創業者)
「戦後の5、6年の間に電気冷蔵庫の製造技術もかなり蓄えることが出来たし、日立や東芝、三菱にも伍していける自信もつきました。でも会社を存続させたくても、(冷蔵庫を)売る力がなかったんです。もし会社を解散するなら、あの時なら株主さんにも迷惑をかけないし、従業員も、5、6百人おりましたが、想定以上のお金を払ってあげられるだけの資産はあったんです。そういう点では、他の会社より恵まれていた。だから、解散しても良かった。しかしそれでは、事業をやってきた人間としては、あんまりにも、ね」
注釈:中川は松下電器に冷蔵庫の販売をお願いすることで、会社を存続させる決断をした
出典『松下幸之助の憂鬱』著者:立石泰則
【感想・論評・補足】
中川は昭和14年に中川機械株式会社(後の中川電機)を設立。日本軍相手に飛行機関係の仕事を受注、戦後は進駐軍相手に電機冷蔵庫を製造し納入していた。しかし昭和26年、サンフランシスコ講和条件の締結で進駐軍が撤収することになり販路先を失った。そこで縁戚にあたる久保田鉄工所(後のクボタ)の創業者、久保田権四郎に一般向けに販売するにはどうすればいいか相談を持ちかける。久保田は一般消費者向けに冷蔵庫を販売するなら松下電器にお願いすべきだということで、旧知である松下幸之助を紹介する。幸之助は販売提携の申し入れを二つ返事で受け入れた。中川機械は中川電機、松下冷機と社名を変更。提携はうまくいった。中川は松下電器の副社長も務めた。中川はオーナー経営者であったので、関西の財界でもかなりの資産家であったようだ
経歴(プロフィール)
■中川懐春(なかがわ・やすはる)
【1907 年~1995 年】日本の実業家。経営者。中川電機(後の松下冷機)創業者。松下電器副社長。1907 年1月7日 大阪谷町筋6丁目で鉄商を営む中川懐太郎・らくの長男として生まれた