大西宏 名言・語録6件
「幸之助を支えた最後の秘書・六笠正弘(むかさ・まさひろ)氏に、『幸之助という人をただ一言で表現すると?』と問うと、『理想に向かって一生懸命だった』と答えてくれた」
「幸之助は寝床に入ってからも会社のことを考え、夜中でも再三目を覚まし、その都度何か会社のことを思いつき、朝を待てず六笠氏に『誰だれに伝えてほしい』などと電話してきたという。まさに一生懸命の日々だった」
「会長だった頃の幸之助の部屋にあった屏風(びょうぶ)に、アメリカ松下電器の組織表とたくさんの社員の写真が貼ってあった。アメリカ出張を前に、相当前から顔と名前、仕事内容を毎日のように繰り返し覚えようとしていた。課長職の秘書の写真と名前まであったという」
「敗戦後、戦災によって経営が破綻し、しかも財閥指定と公職追放で経営がままならず、会社は日本一の滞納王――。幸之助個人も借金王とされ、倒産同然の状態となった。ついに会社の存続が危ぶまれ、希望退職を中心に約1700名の人員削減を行ったが、幸之助はこのことを繰り返し悔やんでいた」
「勤務していた四国・松山から大阪へは船旅が普通だった。この場合、船が見えなくなるまで20分くらいかかったが、得意先の見送りがそれまでに終わることはなかった。幸之助は普通『やりすぎ』と思うことを、少しもそう思っていなかったようである」
【注釈】幸之助はお客様が船で帰られるとき、たったまま船が見えなくなるまで見送ったという
「幸之助にとっては、人はみなお客様、世間全体がお客様だった。かなりの高齢になっても、たとえば直接のお得意先ではない県人会の宴会で上座をすすめられても末席に座り、『いつもお世話になっています』とお酌して回って黒田節を舞ったりしてサービスに努めた」
【出典】
『図解で身につく!松下幸之助の思考法』
【感想・論評・補足】
大西は松下幸之助から直接指導を受けた最後の世代。それだけに大西の幸之助評は貴重な証言といえる
経歴(プロフィール)
■大西宏(おおにし・こう)
松下電器商学院長。松下流通研修所代表。1956年、大阪大学経済学部卒業。松下電器に入社。東京など5つの販売会社代表者として赤字経営の再建にあたる