楊素秋
楊素秋の名言・語録11件
(通訳、日本語教師)
「私はいつも心の中で叫んでいます。私を生み育てた二つの母国よ、共に栄えあれ!」
「幸せは大切にしなければいけません。なぜなら幸せは、国が立派であって初めて得ることが出来るものだからです。国が立派でも、国民の一人一人が立派でなければ、いずれ国は滅びてしまいます」
「今の日本の若者は、他国から統治されたことがなく、裕福で平和な国土で、幸せという座布団にあぐらをかいて過ごしてきたため、これが当たり前だと思っているのではないでしょうか」
「国民党は台湾に来て壊すばかりで何の計画もしませんでした。それどころか、日本のものといったら神社の鳥居までも全部壊してしまいました」
「現在の台湾の町並みを見てもらえば分かりますが、どの家にも鉄格子が付けてあります。まるで、自分で作った牢屋に自分で住んでいるかのようです」
「日本時代は、家の戸を閉めなくても泥棒に入られることはありませんでした」
「日本時代は、人民は政府を信頼していました。そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいという気持ちを表していました。また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れていました」
「台湾では『日本』というのは今でも褒め言葉に使われているのです。『これは日本製品だよ』と言ったら、皆安心し信用するといった具合に」
「日本の若者よ、背筋をシャンとしてお立ちなさい。そして自信と誇りをもって前に進みなさい!」
「私は日本を心の故郷と思っています。そして台湾を愛するのと同じように、心から、祖国・日本に栄えあれと念じています」
「人生行路の最終駅にたどり着く前に、日本の若者が強く大きく大地に立ち、自信一杯、誇り一杯で、お国をリードし、世界の平和を守る姿を見たいと願っております」
【出典】
『日本人はとても素敵だった』
【感想・論評・補足】
日本統治下の台湾は本当に幸せだったと証言する楊先生の言葉には感動し勇気付けられる。楊先生の著書『日本人はとても素敵だった』を読み感動し、楊先生を台湾の母と慕う人に博多の歴女、白駒妃登美さんがいる。2人で台湾と日本を何度も旅行したという
経歴(プロフィール)
■楊素秋(よう・そしゅう)
日本と台湾の架け橋の釘1本になりたいと貿易、通訳、日本語教師など、多方面で活躍。昭和7(1932)年、日本統治下の台湾、台南市で生まれた。日本名は弘山喜美子