田中角栄
田中角栄 名言・語録29件
(内閣総理大臣)
「決断と実行」
「国会議員の発言は、国民大衆の血の叫びである」
注釈:28歳で初当選して3ヶ月後、衆議院本会議にて
「時間の守れん人間は、何をやってもダメだ」
「些細な約束こそ守れ。信用を得る第一歩だ。人脈につながる」
「いいと思ったら実行する。ダメだったら引き返せばいい」
「ライオンは、ウサギ一匹捕まえるのも全力で挑む。これだな、人生の姿勢は」
「勝負は最後まで捨てるな」
「政治とは国民の暮らしをよくするためにある」
「政治はいつでもむずかしいことに変わりはない」
「政治とはつまり、事を為(な)すということだよ」
「政治家は法律を作るのが仕事。それを生かすのが役人の仕事だ」
「国の方向を示すのが政治家の役目だ。それができなければ役人以下だ」
「地道な選挙運動を行なえ。手を抜くな。徹底的に有権者と接しろ」
「過去の統計というものは動かない。僕は経験のほかに、統計というものを重視する」
「まず個別訪問3万軒、辻説法5万回。続いて、沢の奥まで行き、30軒、40軒しかない集落にも足を運ぶ。そして心を込めて名刺を差し出す」
「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこのワシが負う。以上!」
注釈:尋常小学校卒。若干44歳で大蔵大臣に就任。大蔵官僚を前に語った就任演説
「新潟の雪をなくすためにどうするか。三国峠の山を削って平らにする。土は海に埋めて佐渡と陸続きにすればいい!」
「人の一生はやはり運だと思う。実力があってもダメなものはダメ。努力と根気、勉強、こういったものが運をとらえるきっかけになる」
「仕事をするということは、文句を言われるということだ。ほめられるために一番良いのは仕事をしないこと。しかしそれでは政治家はつとまらない。批判を恐れずやれ」
「必要なのは学歴ではなく学問だよ。学歴は過去の栄光。学問は現在に生きている」
「結婚する際、妻に3つの誓いをさせられた。『出て行けと言わぬこと』『足げにしないこと』『将来、私が二重橋を渡る日があったら同伴すること』
「東大の教授は勲一等で、義務教育の先生たちが勲七等、勲八等というのは本来、逆ではないか。子どもは小さな猛獣だ。できれば先生方の月給を倍にしたい」
注釈:田中内閣時代、義務教育の教師の待遇は大幅にアップした
「遠い親戚より近くの他人のほうが大事だ。自分が金持ちでも近所隣が貧乏では結局やっていけない。みんなが良くなれば自分も良くなる」
「法律というのは実におもしろい生き物だ。一行、一句、一語が大変な意味を持っている。だが肝心なのは法律が生まれた背後のドラマだ」
「カラスの鳴かない日があっても、田中角栄の悪口が書かれていない日はない。それを書くのも日本国民の一人である。俺の悪口を書いて、それで暮らしていけるなら、それも結構じゃないか。日本は平和な国だよ」
「毛沢東と周恩来。この二人は死線を何十回、何百回と超えてきているつわものだ。会社でいえば創業者みたいなものさ。彼らが元気なうちに決めなければな。それにアメリカが先にやってしまったらどうなる? 日本はもう用済みになってしまうじゃないか」
「毛沢東は詩人であり、哲学者であり、教師だ。本当の政治家は周恩来だ。世界中に周恩来に匹敵する者はいない。政治家として、行政官として、周恩来は見事なものだ」
「周恩来は世界一の政治家だよ。政治家であると同時に行政官でもある。とにかくすごいよ。どこどこの戦争で日本軍が中国人を何万人殺したと数字をパッパッパッとあげていく。俺も数字には強い方だが、あれは大変なものだ」
「わたしは世界の多くの指導者に会って話したけれども、周恩来という人は、なかでもずば抜けた人物であったね。これはまさに傑物だ。風雪に鍛え抜かれた百戦錬磨の政治家、卓越した行政官でもあった」
【出典一覧】
『大臣日記』田中角栄
『田中角栄書生日記』片岡憲男
『田中角栄100の言葉』宝島社
『決定版 田中角栄名語録』小林吉弥
【感想・論評・補足】
田中角栄は政界でも随一の名演説家であった。当時の政治家で、聴衆の私語がなく黙って話を聞かせることができるのは田中角栄と中曽根康弘の2人だけであった。田中は20代で初めて出馬した時に「新潟の雪をなくすためには。三国峠の山を削って平らにする。土は海に埋めて佐渡と陸続きにすればいい!」と大胆かつユニークな演説をしている。この頃には既に名演説家としての素養は備わっていたといえよう
経歴(プロフィール)
■田中角栄(たなか・かくえい)
【1918年~1993年】日本の政治家。(第64・65代)内閣総理大臣。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)等を歴任した