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石原信雄

石原信雄 名言・語録16

内閣官房副長官

 

 

「私は昭和の終わりから平成の前半を首相官邸で過ごし、そこで『政と官』の狭間にたつ内閣官房副長官として7人の首相に仕えた」

 

 

「当時は各省がそれぞれの道を行き、官邸の言うことをなかなか聞かなかった。困ったものだが、話し合いで各省を説得しながら何とかまとめてきた」

 

 

「この反省から私は橋本内閣の行政改革で官邸機能の強化を提唱した」

 

 

2001年の省庁再編で官邸機能は強まり、平成の後半には官邸が役人の人事権も掌握した。時の政権がめざす政策を役人に忠実に実行させるためだ」

 

 

「だが、その副作用として各省が政権への忖度に走り、時代が求める政策を研究しなくなる心配が出てきた」

 

 

「平成の時代は官邸に権限が集中した。令和の時代にはその集中した権限の使い方が問われる」

 

 

「何年かに一度、各省に大物次官が出る。省益より国益を優先できる人物で、京谷次官はまさに大物だった」

 

 

「当時の官邸は人事権がなく、次官が首をかけて徹底抗戦したら押し切れない」

 

 

「貿易立国の立場が問われたときに京谷次官、塩飽審議官という人を得たことで日本は救われた」

 

 

「当時は大蔵省の斎藤次郎次官も大物と呼ばれた」

 

 

「竹下総理から『後は宇野君だ。君は引き続きやってくれ』と言われた。少し先になるが、宇野内閣から海部内閣に代わる際も副長官の続投は竹下総理から告げられた。この両内閣は事実上、竹下裁定だった」

 

 

「村山総理は公平無私で責任感の強い方である。安保条約堅持、自衛隊合憲と基本政策の転換が受け入れられたのは総理の人間性によるところも大きいと思う。私にとって竹下登元総理と並び、尊敬できる政治家になった」

 

 

「非自民政権でも自社さ政権でも、政策に幅がある政党が政策をぶつけあうと動かなくなる。各党が固有の主張を抑え国民生活を優先するには、霞が関のお膳立てでやるのが一番早い。良い悪いは別にして、霞が関の出番が多くなるのが連立政権の現実であった」

 

 

「橋本内閣の省庁再編で意見を述べる機会を得た。私が官邸にいた時代は各省の力が強く、政権の方針に沿って協力してもらうには各省と話し合うしかなかった。そのため政治主導で政策を実行するには内閣機能強化が必要だと申し上げてきた」

 

 

2014年から官邸が各省幹部の人事権を握り、官邸一極集中の政治主導が強まっている。政治主導は政策の重点を政治が決めることで、それと行政の公平性・中立性は別の話である。法治国家法の下の平等が原則だ。支持政党や思想にかかわらず、同じ要件の人が行政から受ける恩恵に差があってはならない」

 

 

「有力政治家に忖度して行政の公平性・中立性が冒されるのは民主主義の後退で、危険なことだ。官邸が人事権を握る今、勇気のいることだが、役人はこのけじめを守ってほしい。政治の側には行政の公平性・中立性を堅持するため、人事の運用で各省の意見を尊重するよう望みたい」

 

 

【出典】

私の履歴書日経新聞2019年6月)』  

 

【感想・論評・補足】

石原は昭和の終わりから平成の前半を内閣官房副長官として7人の首相(竹下内閣から村山内閣)に仕えた。政権の舞台裏を『政と官』の狭間で切り盛りした。目立たないが政治家からも官僚からも信頼された貴重な人材であった

 

 

経歴(プロフィール)

■石原信雄(いしはら・のぶお)

日本の官僚。内閣官房副長官(在任1987-1995年)。自治事務次官。勲一等。19261124日、群馬県で生まれる。東京大学法学部卒業