(読売グループ)
「品川駅から歩いて10分ほどのところにあった大野伴睦邸は400坪の広さだったが、家は古くて小さかった」
「大野邸には応接室が2つしかなかった」
「大野さんは明治生まれの人らしく、来客が帰るときには玄関まで見送りに出て、自ら靴の向きを直すような律儀さがあった」
「鳩山さんは悲願の日ソ国交回復を実現するため、首相に就任するとすぐに交渉を始めた」
「だが北方領土の二島返還か四島返還かで行き詰まり、昭和31年10月になって打開のために鳩山さんは半身不随の身を引きずるようにしてモスクワに乗り込んだ」
「四島全面返還はならなかったものの『日ソ共同宣言』で国交回復を果たした鳩山さんは、それを花道に退陣する」
「そもそも民主主義すなわちデモクラシーの語源は、ギリシャ語のデーモス(民衆)のクラティア(支配)に始まる。おそらく政治学史上、はじめて理論的にデモクラシーを研究したのはアリストテレスであろう」
「アリストテレスは『政治学(ポリティカ)』の中で、多数者の支配であるデモクラシーから現れる『悪い多数者の支配』の弊害を指摘した」
「小選挙区制とマニフェスト至上主義が、日本の政治を決定的に悪くした根源原因だ。これらとの訣別が、ポピュリズム政治から脱するためには絶対必要である」
【出典一覧】
『君命も受けざる所あり(私の履歴書)』
【感想・論評・補足】
若い頃の渡邉恒雄の写真を見ると、なかなかの男前である。そんな渡邉は読売新聞に入社すると自民党党人派の大物、大野伴睦の番記者となる。大野邸に通っているうちに親しくなり、あるとき大野に『ナベさん、小遣いがいるなら言ってくれ。いくらでもやるよ』と言われたという。当時の記者はみんなお金を受け取っていたようだが、渡邉は『お金はいりません』ときっぱり断る。すると大野は『俺に「金はいらない」と言ったのはおまえが初めてだ』と驚く。しかしそれ以来、渡邉は大野から信頼を得られたという。ここから渡邉は読売グループのドンに登り詰めていく
経歴(プロフィール)
■渡邉恒雄(わたなべ・つねお)
日本の新聞記者。実業家。経営者。株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長などを歴任した。「ナベツネ」と呼ばれた。1926年5月30日生まれ。東京出身