高畑敬一
高畑敬一 名言・語録4件
(松下電器労組委員長)
「昭和25年秋、経済の先行きにようやく暁光が見え始め、松下の経営も内部拡充・生産増加へと転換がはかられたそのとき、組合も会社も、まさに満身創痍(まんしんそうい)の状態だったといっても過言ではない」
「千百名の大量人員整理と大阪工場の閉鎖およびその他の合理化をすすめてもなお経営は依然として好転しないため、昭和24年7月には各製造所を廃止して重役を本社に集中すると共に、一部工場の半日操業が実施された。さらに、経営状態のよくない地方工場のいくつかを閉鎖し、あるいは他に譲ったり独立させるといった合理化策がとられた。従業員のある者は新会社に移り、他の事業所へ併合され、あるいは松下を去っていった」
「もちろん、組合はこうした事態の推移に対して手をこまねいていたのではない。あるときには、支部の単独ストライキ決行寸前という分裂をあやうく回避しながら、会社側と執拗に交渉を繰り返したが、退職金、昇給、退職希望者への他の仕事のあっせん等々、ぎりぎりまでねばりにねばり、会社側から最大限の回答を引き出しつつ、闘いをすすめたのだった。ことに、大量の退職者を出した第一次人員整理は、大阪地裁での法廷闘争までからみ、問題の発生から1ヶ年もの長期にわたる大闘争に発展したのである」
「幾多の大きな犠牲を強いられ、組織の危機に直面しながら、ほぼ三年の歳月が経過したとき、松下労組では四つの支部が解消し、大勢の仲間が職場から姿を消していた。かつて八千名近かった組合員は、25年10月現在で三千五百名にまで減ってしまったのだった」
【出典】
『決断と挑戦 松下電器労組の発想の原点』113項114項
【感想・論評・補足】
松下幸之助はリストラをしなかったと思われがちであるがこれは事実に反する。戦後に大幅な人員整理を行っている。また、あくまでも希望退職を募る形での人員整理であったと主張する人もいるが、高畑敬一が『大量の退職者を出した第一次人員整理は、大阪地裁での法廷闘争までからみ、問題の発生から1ヶ年もの長期にわたる大闘争に発展した』と証言しているので、希望退職を募る形というのも事実と反するといえる
経歴(プロフィール)
■高畑敬一(たかはた・けいいち)
昭和時代後期の労働運動家。松下電器労組委員長。1929年、富山県で生まれる。金沢工業専門学校卒業後、松下電器に入社。働きながら関西大学を卒業