名言・語録・格言

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丹羽正治

丹羽正治の名言・語録6
松下電工3代目社長)

 


「『松下幸之助氏が、いつか私にこんな話をしてくれた。それは━━自分は実社会に出てから60何年にもなるが、その間ずっと一貫して考え、かつ自分にそう言いきかせてきたのは、自分の関係するものごとが非常にうまくいったとき、つまり成功であったなと思うようなときには、自分はまことに幸運であったなと考えるようにし、その反面どうもうまく事が運ばなかったとき、つまり失敗であったなと思うようなときには、自分はまことに至らなかったな、まったく自分が悪かったのだ、ついてはその悪かった点はどこであったかと反省することにしてきた・・・』こういう考え方である」

 


松下電器の今日あるのは、この考え方があったおかげだと言っても過言ではないと私は思っている」

 


「普通なら、うまくいったときはやはり自分のやり方がうまかったのだ、自分の腕前だと思い、うまくいかなかったときには、まったく自分はついていなかった、運が悪かったのだと思うところではなかろうか」

 


「このあいだ、私は松下政経塾でこんな話をした『松下電器という会社が、小さな規模から今日まで発展できた一つの要素に、これまでどこにも書かれていないことがある。それは幸之助塾長の往時の話上手である』」

 


松下電器が今日まで発展してきたのは、経営の中心にいたおやじが、自分の信念をしっかり持ち、それを分かりやすく全社員に語りかけ、それをみなが胸の中にズシンと受けとめ、実行に移したからではないか。松下商法という言葉があるが、それになぞらえていえば『松下語法』がすばらしかったことが大きな要素の一つではないかと考えている」

【注釈】おやじとは松下幸之助のこと

 

 

「井植さんが独立し、結果的に三洋電機が松下に対抗するようになった。しかし、親父は内心はどうあれ、一言もそのことを口に出さなかった。決して、愚痴はこぼさない。親父のいちばん偉いところは、そこでしょうね」

【注釈】親父とは松下幸之助のこと

 


【出典一覧】
『商いづくり』
『任して任さず 私の体験的経営論』
『私のなかの親父 松下幸之助』株式会社波(小柳道男編)

 


【感想・論評・補足】
戦後、井植歳男松下電器を去った後、松下幸之助が最も信頼した片腕の一人が丹羽正治であった。松下幸之助が唯一愚痴をこぼすことが出来た相手が丹羽だったという

 


経歴(プロフィール)
■丹羽正治(にわ・まさはる)
【1911年~1992年】日本の経営者。松下電工3代目社長、松下電器産業監査役PHP研究所副所長、松下政経塾副塾長、産業構造審議会委員などを歴任。大阪府堺市出身。1932年に大阪商科大学高商部を卒業