田口利八
「私は昭和5年、一台のトラックと自分の腕一つを元手に『田口自動車』を出発させて以来、こんにち全国に6千2百余キロ、傍系を含めると約1万5千キロの運輸路線網をもつ『西濃運輸』に成長させるまで、常に現状で満足してはいけないと自分に言いきかせてきた」
「私は知らぬ土地で信用を得るには誠実さがカギになることを飛騨での経験からよく知っていた」
「業界のムードとしてはまだ荷主の顔色をうかがいながら、どんぶり勘定で運賃を適当にふっかける風潮がなくはなかった」
「その中で、適正な運賃、早い運送、客への親切を守るだけで評判は上がったのである。特に大垣は城下町として堅実、保守的な土地柄だったから、なかなか入り込めないかわり、一度信頼を得ると絶対の強みとなった」
「運搬物は建築資材のほか、木材が多かった。飛騨や木曾山中の木どころから切り出す大木を町まで運ぶにはトラックでないと無理であった」
「経営者の義務は基本的には従業員とその家族を幸せにすることだと私は思う」
「第一は経済問題。労働に対する正しい報酬はもちろん、どんな経済変動の時でも従業員の経済問題にうけこたえできる力をもつこと。第二はその企業に働いている誇りをもてること。第三は将来性があること。この三条件を備えてこそ、従業員は幸福と言えるが、そのためには会社は常に繁栄していなければならない」
「事業を進展させるには世の中の動きを知り、常に数歩先を読まなければならない。勉強を怠っては時代を先取りできない。私は朝4時半に起き、7時半まで3時間かけて新聞を熟読、8時に出社するのを通常の日課としている」
「肌で感じた経験で基礎を固め、カンを養い、本や新聞で流れをつかんでいくのが私流のやり方である」
「乗用車の後部には時事解説入りの録音テープを積んでおり、疲れた時でも目をつぶり、ソファーにもたれながら聞くように努めている」
【出典】
『私の履歴書 昭和の経営者群像1』
【感想・論評・補足】
田口利八翁は従業員とその家族を大事にした。広島支店に勤務した小椋栄作氏が急死した際は、3人の遺児が高校を卒業するまで従来通り家族に月給を払った。
経歴(プロフィール)
■田口利八(たぐち・りはち)
【1907年~1982年】日本の実業家、西濃運輸(現セイノーホールディングス)の創業者。1960年、陸運功労賞。1977年、勲二等旭日重光章。1982年、大垣市功労者名誉市民(死後追贈)